今日の寝かしつけ音楽はモーツアルトだった。
音楽は、曲の出来や弾き手の技術、表現力がまず評価される。
けれど、聴いている自分自身の感受性を疑ってかかることも
大事ではないかと思う。
音楽だけじゃなく、言葉や会話、表現すべてに然り、だ。
受けてとしての自分のココロが鈍っているときは、
どんな名曲や名演奏も、響いてこない。
どんなに有難いお言葉や、美しい詩も、
受け入れて咀嚼することができないならば何の意味も持たない。
ネット検索で簡単に手に入る
だれかのそれっぽい
名言をただやみくもにアクセサリーみたいに
振りかざせば、
共感は得られはせよ
だんだん
共感を得ること自体が目的となり
本当に感動しているのか?と謎がのこる。
年齢を重ねて、いろいろな経験をして、私の感受性はどこか歪んでしまっているのではないだろうか。
それが普通のことだとしても、普通になってしまっていいのか。
「自分の感受性くらい 自分で守れ」
という詩のように。
自分の感受性を守っている大人は、どのくらいいるのだろう?
音楽は、曲の出来や弾き手の技術、表現力がまず評価される。
けれど、聴いている自分自身の感受性を疑ってかかることも
大事ではないかと思う。
音楽だけじゃなく、言葉や会話、表現すべてに然り、だ。
受けてとしての自分のココロが鈍っているときは、
どんな名曲や名演奏も、響いてこない。
どんなに有難いお言葉や、美しい詩も、
受け入れて咀嚼することができないならば何の意味も持たない。
ネット検索で簡単に手に入る
だれかのそれっぽい
名言をただやみくもにアクセサリーみたいに
振りかざせば、
共感は得られはせよ
だんだん
共感を得ること自体が目的となり
本当に感動しているのか?と謎がのこる。
年齢を重ねて、いろいろな経験をして、私の感受性はどこか歪んでしまっているのではないだろうか。
それが普通のことだとしても、普通になってしまっていいのか。
「自分の感受性くらい 自分で守れ」
という詩のように。
自分の感受性を守っている大人は、どのくらいいるのだろう?
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